カフェでMacを広げ、自己啓発セミナーへ熱心に通い、休日はバーベキューやパーティー。そんな自分の姿をSNSにアップする……。
副業ブーム全盛の昨今、スキルアップや能力開発の必要性が叫ばれて久しい。
しかしそんな人ほど、以下のような疑問を感じたことはないだろうか。
「自己研鑽をする自分は『意識高い系』なのか?『意識高い人』なのか?」
「その違いは一体どこにあるのだろうか」
概して『意識高い系』は悪い意味で使われる言葉だ。
謂わば”衣の厚い天ぷら”だろう。
賢い人ぶっていて中身がスカスカである人のことを示している。
本書は、著者の古谷経衡氏の独断と偏見による
「意識高い系」の定義を述べた新書風エッセイだ。
その考察は非常に鋭く、
時に頷きながら、時にグサリと来ながら面白く解説してくれている。
本書での『意識高い系』のカギを握るのは
・スクールカースト
・地元志向
この2点だ。
80年代で非行少年の文化は廃れ、腕力と暴力で優劣を競う時代は終わった。
そこで、90年代以降は化粧やファッションセンス、社交性などを競う時代になり
スクールカーストが誕生した。
そこでカーストも上・中・下と分かれるようになり、中流階級の者たちが「意識高い系」に変貌することになったのだ。
上流階級は自分の身分に不満も持たないため、
カフェでMacを広げたところでSNSにアップすることも無し、
自己啓発セミナー通う必要もなければそれらをわざわざアピールする必要もない。所謂リア充がこの層だ。
下層階級はそもそも上に上がろうとしない。
中流階級は「もう少し頑張れば上に上がれるではないか」という淡い期待を胸に、自己研鑽をする自分アピールに必死になる。
『意識高い系は青春時代の弱者』
この言葉に強い共感と悲しさと感じた。
まさに、そのとおりだと思う。
更に興味深かったのが、以下の記述だ
「意識高い系」を論じることは、いまなお「土地」に縛られる日本社会の変容を見ることになるだろう
どうやら『意識高い系』はただの青春時代のトラウマを抱えている人間たち、という訳では無いようだ。
リア充は自分の身分に不満が無いので、地元を離れる必要は無い。
加えて、親から譲り受けた土地を持ち、そこに根差している者が本書でのリア充の定義である。
一方で、これまでの身分をリセットすることを熱望し、一発逆転を夢見て、
東京や大都市圏での大学デビューを図るのが意識高い系だ。
本著内では「地方上洛組」と記述された通り、賃貸住まいの人間たちを指している。
なお、本書のおわりには、
「意識高い系」の世界観とは泥臭さから遠ざかることである。
と書かれている。「意識高い系」が「意識高い人」になるためには、
外観だけでなく、行動の泥臭さが必要なようだ。